ダーウィンの進化論
映画が好きだ。一時期仕事にしたくらいには好きだ。
私が映画好きになったのには、小学生のころからほぼ毎週みていた金曜ロードショーが大きく影響している(今もほぼ毎週観ている)。
『ジュマンジ』、『マスク』、『アダムス・ファミリー』、ジャッキー・チェンの映画など、私を映画好きにした作品は数あれど、外せないのが『インディ・ジョーンズ』シリーズだ。
あの音楽、世界中を股にかけて冒険するドキドキわくわく感、幼かった私はすっかり魅了された。
そんな思い出の『インディ・ジョーンズ』の2作品が、最近2週にわたって放映された。あまりの懐かしさに、もちろん観た。2週とも。
いや、ひどかった。
久々に再会した初恋の人に対して、「え、全然かっこよくないじゃん」と幻滅するときと同じように、私の思い出の中の『インディ・ジョーンズ』と、最近私が観たそれはかけ離れていた。
当時の技術の限界で、CG合成が偽物バレバレなことを言っているのではない。私が言っているのは、作中の民族差別そして女性差別的な描写だ。最初から最後までちりばめられた当時のハリウッドの差別的価値観にひたすら辟易とした。相棒の男の子がいなければ、とても見られたものではない。「私、こんな男に夢中になっていたの…!?」と100年の恋から覚めた乙女のように、私は幼少期の思い出を彩ってくれた『インディ・ジョーンズ』と決別することとなった。
しかし、だからと言って『インディ・ジョーンズ』を観るべきではないとか、放映すべきではない、とは絶対に思わない。「当時の価値観やばいな」と思いながら観るだけである。
たった数年で価値観は変わる。今私がブランドを立ち上げるうえでコンセプトにしていることだって、きっとすぐに時代遅れになる。そうなってくれないと困る。
あと10年もすればすべての原材料の原産国を明らかにすることなんて当たり前になって、そもそも「エシカルジュエリー」なんて言葉成り立たなくなるかもしれないし、「自分自身を表現する」なんて当たり前すぎてブランドコンセプトとして成り立たなくなるだろう。
それでいい。「昔は「エシカルジュエリー」というものがあったんだって」。そうなることこそが、究極の目標である。