ジュエリーワンダーラスト

エシカルジュエリーブランドの立ち上げ準備の記録と海外暮らしについて。

大晦日も元旦もつまりただの一日

新年あけましておめでとうございます。今年はジュエリーブランドをいよいよ始動させることが目標です。ご興味を持っていただいた皆さんには、引き続き見守っていただければ幸いです。

 

と、2021年大晦日に書いている。なぜならば家族のいるリビングにずっといるのがしんどいからだ。

 

年末年始親族の集まりが正直キツイ、同志の皆さん。私は今、隣でテレビを観ながら家族団欒する両親と姉を尻目に、一人隣の部屋に移動してきてこれを書いている。

 

最初に断っておくと、うちは家族仲とても良いと思うし、私自身愛情をたくさん受けて育ったという自覚がある。しかし、大人になっても子どもの時のまま家族と100%楽しく過ごせるかと言われれば、答えはNOだ。なぜなら私は家を出てすでに10年以上が立ち、その10年の間に自分なりに様々な情報を得、経験をし、それによって独自に思考を形作ってきたから。

 

昔自己紹介で書いた通り、私は北国で育った。うちは地方の典型的な、ひどく保守的な家だ。平たく言えば、父は自己責任論者だし、母は家事は女の仕事と思っているし、姉は政治について無関心でいれば自分は「中立」でいられると信じている。末っ子の私だけが、社会保障は厚くすべきだし、性別で役割を決めつけるのはおかしいし、性的志向に関わらずみんなが好きな人と結婚できるようになるべきだし、選挙には絶対に行くべきだ声を上げている。それゆえ、私と家族の間ではちょっとした言い争いがよく起きる。

 

そんな家族でも、政治の話さえしなければ問題なく過ごせる。しかし問題は、政治の話をせずにいるのは不可能だということだ。なぜなら生活そのものが政治だから。テレビをひと度つければニュースではホームレスの炊き出しについて報道されているし、ドキュメンタリーでLGBTの人々の生活が映し出される。テレビでなくてもいい。私と夫が仲良くやっているのか、義家族の前ではどんなふるまいをしているのか、といったことをきかれる。それらすべて政治信条を絡めずに話すことができない。

 

自分の家族がそうとは意識せずに、差別的発言をするのを聞かなくてはいけないというのは、結構な苦痛だ。私はそれでも、その考え方がいかに差別的で間違っているのか説明はするけれど、それくらいでは人の信条は変わったりしない。自分もしくは近しい人が実際に社会的に不遇を受ける立場にならないと、人の考えというのは変わらないのかもしれない。なので大体、私の説明は徒労に終わることが多い。

 

ということで、久々に家族と過ごせる貴重な時期であると思う気持ちと、また嫌な思いをしなくていけないのかというアンビバレントな気持ちに挟まれて、年末年始は大抵しんどいのだ。なので毎年、聞きたくない話に参加しなくて済むよう対策を立てている。去年はアガサ・クリスティの『ナイルに死す』を持参し、嫌な話が始まるとそれを読んでなんとかその場をやり過ごした。本の選定基準は、「なるべく厚くて読み終わらない」ということだった。今年の対策として、私は隣の部屋にこもり、まるで仕事でもしているかのように装ってこの記事を書いている。

 

断っておくと、こう書きながらも私は家族のことが好きだ。保守的ではあるけれど、父は、私や姉が勉強して出来るだけ高い教育を受けるよう励ましてくれたし、母は、きゃりーぱみゅぱみゅなど自分とは全く違う世代の個性的なスタイルを持つ若者も「とてもかわいい」と褒められる柔軟な考え方も持っている。彼らは決して「毒親」ではない。

 

しかし毒親」でなくても、親がしんどい人は周りを見渡せば結構いる。特に娘が母親に対してしんどいと感じることが多いようだ。別に暴力を受けたわけではない。ただ過干渉がつらい、という。毒親というほどではない、というのが一番困るのかもしれない。

 

私には、新聞記者としてバリバリ働き弱者に寄り添う記事を書いている、尊敬すべき友人がいる。そんな彼女が「なんで母親ってああなんだろうね」と私にこぼした。彼女に「うちもそうだよ」というと、「え、そうなんだ」と驚き、次の瞬間には少しほっとしたような表情になった。みんな自分の家族のことは悪く思いたくないのだな、と思った。嫌なところもあるけれど、それ以上に感謝していることや好きなところがある。ただ、何事にもいい面と悪い面があるのと同じように、好きな家族だってしんどくなる時もある。それでいいではないか。私たちは正常に発達段階を通過して親離れをし、自立した大人に成長した、ただそれだけだ。

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