ジュエリーワンダーラスト

エシカルジュエリーブランドの立ち上げ準備の記録と海外暮らしについて。

人はパンのみにて生くるものに非ず

実はこのところ、「途上国疲れ」をしている。

 

そういう言葉が存在するのかは知らないが、発展途上国で生活することに嫌気がさしてきている、ということだ。スーパーに買い物に行くことさえ嫌で、人との関わりを避けてなるべく家から出たくないと思う。原因は主に2つ。

 

ひとつめは、好奇の目に晒されること

現在住んでいるアフリカ某国では、アジア人は目立つ。中国によるアフリカ進出が目覚ましいため、アフリカには中国人が多くいると思われるかもしれないが、それでも黒人や白人に比べ黄色人種の割合はもちろん圧倒的に低い。それと、中国人はどの国の首都でも大体チャイナタウンを形成していて、その中だけで生活を完結できるようにしていたりもする。そういう意味でもアフリカの街中でアジア人というのは、結構目立つのだ。

 

好奇の目を向けられる理由は、単純に物珍しさのためだったり、お金だったり、はたまたアジア人「女性」だったりするためだ。視線だけならばいいが、しつこく話しかけられたり(買っていかないか、店を見ていかないか、夫はいるのか、など)、差別用語を吐き捨てられたり、下手すると腕をつかまれたりして身の危険を感じることもある。自衛のために長い髪をまとめて帽子に入れて、サングラスをかけて目を合わせないようにするなど、一歩外を出る度にそんなことをしなくてはいけないのが、積もり積もって疲れてしまった。もちろんそういう「出会い」を楽しめる人もいると思うが、私はそうはなれない。

 

でも実は、初めてフランスを観光で訪れた時も、路上でのスリや押し売りに警戒しなくてはいけないことでどっと疲れて、観光を取りやめて一日ホテルでのんびりしたこともあるし、なんなら日本にいたって、街中のナンパが嫌すぎて特定の場所は避けたりしていたので、途上国じゃなくたって似たようなことは起きている。

 

ふたつめは、蔓延る貧困と格差を目にしなくてはいけないこと

こっちの方が深刻かもしれない。道を歩いたり車で移動していると、子どもと杖を突いた老人のペアの物乞いの人に遭遇する。疲れた様子で道端に座り込む乳児を抱いた女性とその周りで遊ぶ幼児に遭遇する。お金をくれと話しかけられることもある。その瞬間、「物乞いビジネス」の話が頭をよぎる。「道端で財布を開けたばかりに強盗にあった人」の話も頭をよぎる。あげられる小銭を持っていないときは、ただNoと言って気まずくその場を立ち去るしかできない。そしてようやくきり抜けたところで、自分が帰るのはこの国では富裕層の外国人用マンション。この国の貧困を見たくないと思いながら、結局自分も居心地のいい空間で心を痛めるばかりで、何もしない人間の内の一人なのだと思うと、気が滅入る。

 

言い訳だが、毎月途上国の子どもの支援をする慈善団体に一定額を寄付をしている。私よりもずっと長年寄付されている大先輩が言っていた。「世界の状況を変えたいというポジティブな気持ちよりも、何もできない自分の罪悪感を軽くする慰めとささやかな祈りである」と。その人の言うことが今ならわかる。

 

最近、版画を購入した。

女性支援組合が開催したマーケットにそれと知らずに立ち寄って、このアーティストのブースが目についた。

最初に見つけたのは左の「グー」の方で、なんとも言えない力強さが気に入った。その後、右の「祈っている手」を見つけた。力強さは変わらないのだけれど、力強さの質がまた違う気がしてこちらも気に入った。2つは対ではないのだが、並べて飾るとさらに気に入ったので両方購入した。2つで日本円にして4000円ほどだったと思う。版画だから、これ1枚しかないというわけではなく、同じものが5枚置いてあった。インクの付き具合がそれぞれ違うので気に入ったものを選べばいいのだが、なんとなく「1/5(5枚中1番目)」の順番を崩すのが気が引け、えり好みはせず一番上にあったものをそのまま購入した。

 

ちなみにブースに立っていたのはアーティスト本人で、私が公用語であるフランス語で話しかけても返事がなく、身振り手振りでの会話だった。てっきり現地語しか話さない人なのかと思ったが、後々調べてみると聴覚障害のあるアーティストだった。

 

あいにく私は流浪の民なので額に入れて飾る余裕がなく、普段はほこりが被らないように畳んで保管し、気が付いた時に開いて眺めては「いいな」と悦に浸っている。版画は一見平面だが、実物はインクの盛り上がりがあって触るとざらざらする。購入者の特権で、そっと触ってその感触も楽しんでいる。プリントではなく本物はそういう楽しみ方も出来るので良い。でもいつか終の住処を手に入れた際には、きちんと額に入れて飾りたいものだ。